女だから言えること | 引きこもり、精神病からの生還

太ったおじさんみたいなおばあさんです。キレキャラとおふざけキャラと真面目キャラを分離する才能がないので、丸ごとの自分を出してます。

夜の街で知り合った外国人達Part2

日系人アンヘルの人生

 さて、夜の街で知り合ったアンヘル(仮称)の話をしてみたいとおもう。彼は家族ごと日本に移住してきた日系ペルー人だった。ペルー人と言っても両親とも東洋の人種らしく、顔や体つきはどこから見ても日本人だ。身長は私よりも低く150cm程度で細身な男性だった。昔の日本人はこのような体型だったかな?と思わせるような小柄な体型だ。

 アンヘルは日本語があまり話せない。ある程度大人になるまではペルーに住んでいたからだ。大人になってから慣れない日本語を勉強するのは大変だろうし、何よりも彼は働き者で長時間労働をしているので、日本語を勉強する時間はなかっただろう。

 アンヘルには妻と5人の子供がいて7人家族だった。そんな事情もあってか、彼は朝の6時から夜の11時まで働いていると言っていた。そして給料は1ヶ月40万円だと自慢していた。アンヘルは日本語があまり話せないので、6時~11時まで働いているというのは通勤時間を入れてだったのかもしれないし、40万というのも税金を引く前の金額だったのかもしれないが、それにしても働き者だった。

今も昔も日本人がやりたがらない仕事は外国人がしている

 何の仕事をしているのかと聞くと、自動車工場で車のドアの取付の仕事をしていると言っていた。「えー、車のドアって相当、重いでしょ!?あれをずっとハメてるの!?すごいねー」と本気で驚いてしまった。今は機会化されている作業かもしれないが、当時は人間がやっていた。そんな重労働を長時間しているアンヘルは立派だと思った。他にも日系人はゴミ処理場やパン工場なので働いている人が多かった。日本語があまり話せない人は、作業労働に従事するしかないのが実情だ。

 そんなキツイ肉体労働で稼いだお金の一部、400万円を使ってスペインに家を買ったと言っていた。なんとなくだけど酔っ払った南米人男性は話を盛る傾向があるような気がしていたし、日本語もたどたどしい人の話なので正確な情報であったかは未だに謎だ。正確な数字はともかくとしても、アンヘルが優しく温和で正直で誠実な人柄であることは、その話の内容や態度から感じられた。

1980~1990年はペルーのテロ活動が活発

 そんなアンヘルが家族全員で日本に移住してきた理由は壮絶なものだった。彼の一族は典型的な南米移民で、並々ならぬご苦労をしてきている。そしてやっとアンヘルのお父さんの代で少し大きな工場を経営できるほどの地位と財力を得た。移民してから、そこにいたるまでのご苦労は大変なものだっただろう。

 だが、1980年代~1990年あたりまでペルーでは活発なテロが行われていた。テロリスト達は高い教育を受けておらず、その設備、文化財の大切さを理解できず、重要な建造物を「贅沢」「富の象徴」とみなし、次々と破壊していくという愚行を行っていた。ペルーやペルー以外の国にとっても有益で重要な施設・設備までもテロリストが破壊してしまう状況があったらしい。その典型例が「太陽コロナ観測所」だ。この観測所は観測を初めて1ヶ月でテロリストに破壊されてしまう。この話は本筋ではないので以下の記事を読んで欲しい。

◆コロナ観測所の破壊について

ペルーに望遠鏡を贈ろう!募金

 

裕福・贅沢だとみなされると無条件に攻撃される世界

 こういったぺるーの世情の中で、苦労して苦労してやっとのことで成功したアンヘル一族の家も工場も、やはり「成功者・富の象徴」としてテロリストに攻撃されたのだ。家や工場に3回も爆弾を投げ込まれたという。アンヘルは思い出すのもつらそうに「テロリスト、バクダン、ナゲル。スゴイ、コワカッタヨー。」と言っていた。そしてペルーにいると危険だとせっかくペルーで築いた地位や財産を投げうって、一族で日本に移住してきたそうなのだ。アンヘルはもうあんな怖い思いはしたくない、ペルーには帰りたくないと言っていた。別件で、ペルーでは大学教授だった人が日本では工場労働をしているという話しも聞いたことがある。あの頃はペルーの内政に問題がありすぎて、優秀な日系人がペルーを逃れ、日本に帰ってきていた時期なのかもしれない。

同じ日系人でも貧富の差はあったらしい

 同じ日系ペルー人でもペルーの田舎町に住む庶民の日系人はそんな危険な目には合っていないようだった。だからペルーに帰る気満々の人もいた。だがアンヘル一族のように少しばかりの地位や財産を築いてしまって、テロリストに狙われるような怖い体験をした日系人は、もうペルーには帰りたくないと言っていた。

 これらの話を聞いた時、思ったことがある。日本でも財政の話になると、一族に金のある人達から相続税を取るべき、金持ちから沢山の税金を取ればいい、と言う人達がいる。だけど、たかだか2~3代で、畑を開墾するところから、奴隷と変わらないような肉体労働から財を成したお家からたんまり税金を取るというのはどうなのだろうと思うことがある。つまりは0から始めて、命を削って子孫に財産を残そうとした人達から税金を搾り取るの?と思うととてもやるせない気持ちなるのだ。

 日本の昔から続く由緒正しいお金持ちの家とは話が違うだろ?というのは分かる。だが、日本のお金持ち達の集う社交界では、その家が「三代以上に渡って栄えていないと由緒正しい両家とはみなされない。」という暗黙のルールがあり、ぽっと出の一代目などは馬鹿にされ差別されると聞いた。そんな思いまでして、這い上がったのにお金を稼げるようになった途端に税金を搾り取られるのか…と思わないでもない。

 ペルー大使館占拠事件の時に現場にいた人の話を聞いたことがある。その話もいずれ書きたいが、今回はここまでにしておく。アンヘルの祖父母は下記のような思いをしたかもしれないと思いを巡らせながら読んで欲しい。

日系移民の置かれた状況 

◆ドミニカが一番過酷だったらしい

 日本人の移民(棄民)の状況は移民先の国、関係した組織などによって現地での待遇は違ったようだ。七百万人の引揚者、失業者であふれかえっていた戦後の日本では、貧困と人口の急激な増加への対処法として移民政策を行った。「人工の肥沃で広大な農地の無料譲渡」を国に提示されドミニカに移住した日本人達に与えられらのは、条件よりはるかに狭く所有権もない岩、石、塩だらけの不毛な砂漠の土地だった。耕作不適地なうえ、水不足も重なり多くの人達が絶望して自殺したという。私がTVで見たドキュメンタリー番組では沢山の死亡者の名前が壁に彫ってあって、「この人も自殺、この人も自殺…」と現地の日系人が説明していた。

 ドミニカのように農業を目的とした移民の場合は、一から開墾すべき原野であることが多く、労働者として入植するのとは違った肉体的・精神的な負担があったようだ。

 

◆南米はイタリア人が逃げたので日本人が入植した

 南米の場合は、北米の奴隷解放の流れを受けて南米も奴隷を解放したので労働力が足りず、(奴隷代わりの)移民を欲しがっていたという背景がある。先に入植したのはヨーロッパ人だが、あまりの待遇の悪さにイタリア人が反乱を起こし移民がストップしてしまう。その後に入植したのが日本人だった。高待遇や高賃金をうたった喧伝とは違い、実際には奴隷的な生活を強いられたのは言うまでもない。

 ちなみに日本人は反乱・ストライキという闘いの形の抵抗は好まず、夜逃げという形で抵抗した人達が多かったらしい。私はそういった日本人の暴力に訴えない問題回避の仕方がわりと好きだ。

 

移民 - Wikipedia

私たちの40年!! あるぜんちな丸同船者寄稿集

ブラジル移民百年とは何だったのか……現在も生き残る少数派移住地・アリアンサ

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